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指揮者だって人間だ

晴れた日には洗濯を。

「ありのままの自分はどこかにある」という幻想

考え方 生活

蓬沢ちか (id:cka2) さんのこちらのエントリーに

「ありのままの自分でいること」と「自分を抑えること」のさじ加減 - よもちかブログ

このようにブックマークコメントを残したところ

うーん私はありのままの対極が自分を抑えることではないかなあと思います。育った生い立ちや環境という束縛がその人の人となりを作って、そういうのも含めてありのままになるんじゃないかと

こちらの記事でアンサーをいただき

私のなかで「自分を抑えること」と「周囲と協調すること」はイコールです - よもちかブログ

さらにこのように言及いただいたので

気になるのはid:nyokkicondさんにとって、ありのままの対極は何なのかってことです。抑制でなければなんなのか、気になるので、もし良かったら教えてほしいなと思いました。

「ありのまま」について考えてみました!
ありのままの対極にあたるものが何かについていろいろ考えを巡らせてみたところ、そもそもありのままってなんだ?というところから始まり、自分の中での結論は「ありのままの自分というものはない、もしくは自分は常にありのままである」ということになりました。
なのでそもそも私のブックマークコメントはちょっと私の考えていることとちょっとずれていました、スミマセン。
ともあれ今の私の「ありのまま」について思うことをまとめてみました。

レット・イット・ゴー~ありのままで~(日本語歌)

レット・イット・ゴー~ありのままで~(日本語歌)

アナと雪の女王Let it go が流行り、ありのままの自分でいることの素晴らしさが多くの人の共感を得たようです。
(私はディズニーに苦手意識を持っているため見てません)
「ありのままの自分で暮らしたほうがいいはず!」という意見がある一方で、蓬沢さんは自身のエントリーで

  • ありのままの対極は抑制
  • 抑制を忘れてありのままに走ることは危険なのでは
  • バランスが大事

と述べていました。

一読して「うん、そうだ」と思ったものの、よくよく考えてみると「いや、ありのままの対極って抑制か?」と思い、さらに「ありのままでいるってどういう状態だ?」と思考をめぐらせてみたもののうまくまとまらず。
ただ、「ありのまま」や「本当の自分」や「自分探しの旅」はいつか書きたかったテーマなので、これを機会に腰を据えて頑張って考えをまとめてみました。

私個人的な意見としては「ありのまま」や「本当の自分」というワードって、そもそも何かのカウンターパートとして用意されることが前提になっているのではないかと感じています。
例えば

抑制されている状態→「ありのままの私になりたい!」
興味のなかった職種についたが毎日が辛い→「本当の自分はこれじゃない」

など。
具体的な例を挙げると

営業職についたがコミュ力が無くて辛い
→「もともとプログラマになりたかった。本当の自分はプログラマに向いている!」

とかでしょうか。
何か変えたい現状というものがあって初めて成立するのが「ありのままの自分」だと思うのです。
なので多くの文脈では「現在の自分に全く不満がなく、いま自分はありのままである」ではなくて「現在の自分に不満がある→ありのままの自分になりたい」ではないのでしょうか。
少しややこしいですが「不満や欲望が渦巻く自分」という本体があって初めて生まれる影が「ありのままの自分」という虚像なのではないかと。

たとえカウンターパートだとしてもそのように存在するのであれば「ありのままの自分」というのは明確な理想像があり、虚像ではないのではないか、と思われるかもしれません。
例えば上の例であれば「ありのままの自分=プログラマになった自分」のように。
このような認識だと、ありのままの対極にあるものは「不満を持っている現状」と結論づけられるでしょう。
しかし本当にそうでしょうか。
仮にプログラマに転職できたとして

プログラマになったが商業用システムのつまらない仕事にやる気がでない
→「未知の分野に挑戦したかった。本当の自分は研究者に向いている!」

となる可能性だってあるわけです。
つまり、「ありのまま」を「不満を持っている現状」という概念の対極と定義付けている限り、現状に満足することがなければ「ありのままの自分」という影は一生つきまとう可能性がある。
昨日まで「ありのままの自分」だと信じていたプログラマになった自分が、明日からは「不満を持っている現状」になるかもしれない。
わたしは「ありのままの自分」という言葉のニュアンスとして、「ありのままの自分像」が固定された唯一のものでないと気持ち悪く感じるので(ありのままの自分が週ごとに変わったら変に感じます)そもそも「「ありのまま」が何かのカウンターパート」という前提そのものがおかしいという結論に至り、ありのままの自分なんて虚像に過ぎないのではないかと考えました。
不満や欲望を突き詰めていくとキリがなくて、なんでも欲望を言い出していけば「暑いから電車の中だけど全裸になろう、それがありのままの自分」ということにもなってしまう。
蓬沢ちかさんの「バランスが大事」という言葉に共感したのはそういう点なのですが、私が違和感をもったのは「ありのまま」やその対極にあるものがグラグラ動いてしまうのにそのバランスの良い中間点って取れるのかな?ということでした。

もう一つの考え方として、これは言葉の定義の問題だけかもしれませんが、そういう「理想像を追い求めている私」も含めた私全体がありのままの自分なんじゃないか、という見方もあります。
よりメタ的な視点に立った「ありのまま」の解釈です。
現状に満足したりしなかったりするのもその人の性格のひとつ。
ありのままの自分で悩む姿もありのまま。

青い鳥ってあるじゃないですか。
幸せになる青い鳥を探すために兄妹で世界を旅したけど、最終的には幸せの青い鳥はすごく近くにいたって話です。
あれって私は「身近にある幸せを探すことが大事」という教訓以上に「青い鳥を探して世界中を旅したこと自体が兄妹にとって幸せだったのでは」というメッセージを感じるんですよね。
自分探しの旅でインドに行ったりする人もいるようですが、私がその人の話を聞いた時に感じるのって「ああ、この人は自分探しの旅でインドに行くような人なんだなあ」ということであって、もうインドに行く時点でそういう「自分」が形成されていると思うのです。
自分はすでに「何か」であって、それを探しても見つからないし、探さなくてもそこにある。
ネコが何もしなくてもネコであるように、誰しも常に「ありのままの自分」で生きていると思うのです。

どちらにせよ、「ありのままの自分はどこかにある」という考えは幻想であり、ありのままってのは何処にもない、もしくは何もしなくても誰だってすでにありのままなんだよ、と私は思います。

本当の自分が見えてくる 心理学入門

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