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指揮者だって人間だ

晴れた日には洗濯を。

わからないことは恥ずかしいことじゃない

朝、子供を起こすときに
「ほら、朝だよ。雨降ってるから早く行かなきゃ」
と言うと必ず
「ちがうよ。雨じゃないよ」と布団の中から言います。
私はよく「えー雨降ってないよ」と言ってしまうのですが、よく考えてみたらちょっと違うなと。
「雨降ってるかどうか、見てみないとわからないでしょ?」と言うのが正しいのかなと思うようになってきました。
ようするに「わからない」と言っていいんだよということを教えてあげるべきかなあと考えているんです。

「わからない」という方法 (集英社新書)

「わからない」という方法 (集英社新書)

こないだPC遠隔操作事件で犯人が自供して事件の全容がやっと見えてきましたね。
誤認逮捕から始まった一連の流れの中で「絶対にこいつが犯人だ」とか「この証拠は検索の捏造だな」とか断定的な意見を言う人もネット上にたくさんいましたが、なぜそう言い切れるのか、とても不思議でした。
ゼロかイチかで語ろうとする人がとても多かったような印象です。
私はこの事件に関してのエントリや意見は述べませんでしたが、もし誰かに「どう思いますか?」と聞かれていたら正直に「わかりません」と答えていたと思います。
ほぼこっちに間違いないな、と思ったことであれば「おそらくこっちだと思います」と答えていたでしょうが、どれだけ事件の報道を見ても複雑すぎてわからず断定できませんでした。
断定する人がいたら、その人は嘘つきだったと思います。

嘘をつきたくて嘘をつく人はあまりいません。
嘘つきは信頼をなくしますからね。
人と人とのコミュニケーションをとるためには嘘をつかないことが基本です。
私も嘘をつく人とは仲良くしたくありません。
しかしたまたま嘘をついてしまうことだってある。
断定の物言いはそのひとつです。
例えば一年後の天気を聞かれて「雨ですね」と答える人は嘘つきでしょう。
わかるわけがないことを断定してしまうと嘘をついてしまう可能性がある。
そういう意味で、PC遠隔操作事件でも「アイツが犯人だ!」と言っていた人と「アイツは犯人じゃない!」と言っていた人はどちらも同じ部類に入ると思うのです。

断定した物言いになる理由は2つあると思います。
ひとつは、脳は曖昧さを嫌うということ。
何かに対して「AかなBかな」と考え続けるのは脳のリソースを多めに食うんですよね。
それよかは「Aだろう」とか「Bに違いない」とか考えてレッテルを張ってしまったほうがそれ以上考えなくてすむ。
断定してしまったほうが脳にやさしいんです。
「草食系男子」とか「アラサー」とかのカテゴリ分けがすんなりと受け入れられるのも、脳があらゆるものにレッテルを貼って単純化したがるせいではないでしょうか。

もう一つの理由は、断定したほうがカッコイイし頭がよく見えるということ。
頭の回転が速い人は脳の処理速度が速く深いところまで物事を考えることができるため、早くに結論を出すことができます。
リーマン・ショックが日本に与えた影響は欧米より大きかったか?」と聞かれて即答出来る人は相当明晰な頭脳の持ち主か、そうでなければ経済の専門家でしょう。
しかし問題なのは「頭がいいと思われたい」人も断定的な物言いになるということ。
いわゆるしったかというやつです。
こういう人は得てしてあらゆることに関して「それはAですね」と即答するのですが底が浅い。
突っ込むとボロが出てきてなんだただの偏見か、となります。
本当に頭のいい人はわからない問題に関してははっきりと「Aの可能性もBの可能性もあります。私にはわかりません」と答える。

この2点にさえ気をつけていれば、分からないことに対して「わかりません」という言葉が出るのはごく自然ではないでしょうか。
誠実であろうとすればするほど知らないことを知ったふりはできない。
私は学校で、わからないこと=いけないことと教わりました。
知っている方が知らない方よりえらい。
わかる人のほうがわからない人よりえらい。
空欄で出すな、何かしら書け。
そう言われて、歴史のテストでは知らない年号は適当に埋めてきました。
学校で先生に当てられた時に「わかりません」と言うのは恥でしたし良くないことでした。
でも、本当に誠実であろうとすると、知らないことを知らないという大切さを説いてあげるのも大事なのではないでしょうか。
断定的な物言いをする人を見るたびに、「わからない」と言うのは恥ずかしくないんだよ、正直でいいんだよ、ということを子供に教えてあげないといけないなあと思います。

経済のことよくわからないまま社会人になってしまった人へ

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