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指揮者だって人間だ

晴れた日には洗濯を。

理屈っぽい私の理屈っぽい反省

理屈っぽい人への話し方、みたいなエントリを読んで思うことがありました。

私は割と理屈っぽいと言われることが多い方なのですが、それでなんどか小さい失敗と大きな失敗を繰り返していて、理屈のみでコミュニケーションをとることのダメさみたいなものが少しずつわかるようになってきたつもりです。
すべての人に当てはまるわけではないですが、理屈っぽい人から考えた理屈ですべてを考える人向けの反省点をだらだらと書いてみます。

 

お客さま!そういう理屈は通りません (ベスト新書)

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 理屈っぽい人は理屈至上主義者の人も多いです。

理屈が通っている主張の方がかならず正しいという考え方です。
私はこれでよく嫁とケンカしてました。
自分の理屈の方が(自分から見ると)正当性があるように見えて、その正当性をいかに理解してもらうかに時間を使うのですが、これを押し通すことで物事が円満に解決したことがないんですよね。
「自分の主張は客観的に見て正しい」モードに入ってしまうとテコでも動かなくて相手が折れるのを待つしかなくなってしまう。
まあこれで問題がほぐれるわけはないわけです。
 
よく言われることですが、理屈で人って動きません。
「私の言っていること間違ってる?間違ってないでしょ?じゃあやりなさい!」と一見理屈で物事を動かしているように見えて結局は力技で進める先生とかも過去に何人かいましたが、まあ嫌われるタイプの先生ですよね。
生徒はおとなしく従うのですが、その指示に生徒が従うのは先生と生徒という上下関係があるからであって、理屈は納得出来ても感情は納得できないことはままあるわけです。
理屈っぽい人だって感情はあるのでそれが理解できないわけはなんです。
理屈で勝つ俺TUEEEEEE!!!になってしまうと自分の感情面での説得力のなさに盲目になってしまう。
 
あと、理屈っぽい人って感情で相手に寄り添えないから理屈に逃げているところもあるんです。
理屈じゃ根本的な共感って得られないのでそのズレに気づかないとちょっと不幸になってしまいます。
この理屈じゃ動かないってのは子どもを育てていると実感することが多いです。
明日は公園で遊ぼう!と言ってたけど雨が降ってしまった。
子どもは公園で遊びたいと泣く。
雨の中公園で遊んだら風邪をひくことを説明しても泣き止まない。
理屈で子どもが泣き止めば世話はないんですよね。
こういう時に親は「楽しみにしてたのに遊べなくなってしまって悲しい」という感情に寄り添って、この悲しい気持ちをいかに払拭してあげられるかを考えるべきです。
(もちろん教育としてはなぜ雨が降っていると外で遊べないかの理屈も説明するべきですが)
子どもも本当に望んでいることは「楽しい体験をすること」であって「公園で遊ぶこと」ではないかもしれませんし。
この例のように子どもの感情に寄り添ってかんがえることができれば問題は解決できるのですが、感情を全く抜きにして理論のみで説得しようとすると子どものような理屈が通じない人には絶対にうまくいきません。
 
逆説的ですが、理屈っぽい人って感情的な人が多い気もするんです。
「自分の方が正しいと思ったらテコでも動かない」っていうのはある意味思考にストッパーがかかっているような状態だとも言えて、そのストッパーって結局「俺は理屈でものを考えられることができる知的な人間なんだ!」という感情なんですよね。
自分の間違いを認めたくないからプライドを守るために主張を固定してしまう。
本当に理路整然と筋道だてて考えられる人って絶対に思考にストッパーをかけずに「あの人はなぜこっちを主張しているのだろう」と考えることをやめないのでテコでも動かない状態にはならないと思うんですよ。
理屈を考えられるのであれば、自分の主張の正当性を考えると同時に相手がなぜその主張をしているかを考えればいいんですよね。
まあ相手がどういう感情を持っているか推し量るのは相当に難しく私もどうすればよいかわかっていないのですが。
推察を重ねればわかるようになってくるのかなーと楽観的に考えています。

 

理屈が通らねえ (角川文庫)

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浮雲亭物語 一席 ~落語は理屈じゃねぇんだ。そこに愛はあんのかい?篇~

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