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指揮者だって人間だ

晴れた日には洗濯を。

「作者の気持ち」は作品の評価に必要か

映画や本の解釈の議論の中で「それは違う、作者はこう発言しているのだからそれは◯◯のメタファーだ」などと主張をする人がいます。

「作者はこう思っていたんだ」という情報はその作品の評価に果たして必要なのでしょうか。
作品は作品単体で評価されるべきだと、私は思うのです。
「作者の気持ち」は無視すべきです。

 

 

 ラヴェルの有名な作品に「ボレロ」という舞曲があります。

この曲は単一の主題をずっと同じテンポで12分間繰り返し続けます。
シンプルなメロディーと構成でありながら音色の博覧会のようにオーケストレーションが鮮やかに変わっていくことでも有名で、ミニマルのような中毒性がある恍惚感あふれる音楽でラヴェルの中でも最も有名な曲ですが、ラヴェル本人はあまり気に入っていなかったと言われています。
単純明快でわかりやすい構成のボレロですが、指揮者によって少しずつ解釈が異なり、演奏もわずかながら違いがあります。
異色の演奏をした指揮者で有名なのはトスカニーニでしょう。
彼はこの曲を楽譜の指示よりテンポをあげて開始し、なおかつ最後に向けて少しずつテンポを早くしたといいます。
その演奏を聞いたラヴェルは激昂しトスカニーニに抗議しましたが、トスカニーニはこう反論しました。
「君はこの曲の良さをまったくわかっていない!」
 
私は作品の評価に「作者の気持ち」を持ち出す人がいる度にこの話を思い出し、作者が正しく作品を理解できていないことだってあるよなあ、と思うのです。
トスカニーニの解釈が正しかったかどうかはさておき)
絵でも「この黄色は私が幼い頃に住んでいたトウモロコシ畑の黄色から来ている」などと最もらしく言う人もいます。
言うこと自体は別に良いのですが、絵の評価に作者の「こういう思いで書きました」まで含めるのはどうかと思います。
極端な話、作者がウソをついている可能性だってあるのです。
 
もちろん、評論家としての作者の意見は反映されてしかるべきだと思います。
そこに主観的な意見が無くあくまで評価する側としてのコメントができるのであれば、作者の意見も鑑みられてしかるべきでしょう。

また、時代背景や作者の育った環境などの客観的事実は考慮されるべきだとは思います。
作者がそれを語った時により影響力を持って伝わるのは問題だと思いますが。
 
コンテンツはコンテンツ単体で評価されるべきだと思います。
国語の授業で「作者の気持ち」を考えるのは、本当に作者がどう思っていたか、ではなく問題用紙にかかれた情報から推察される解答を導く論理思考のトレーニングです。
本当に作者がどう思って書いたかは全く問題ではありません。
センター試験の問題文がサルがタイプライターを叩いて偶然出てきた文字配列だとしても、川端康成が書いた文章だとしても、同じ文章、同じ問題であれば「作者の気持ち」の模範回答は変わらないはずです。
 
ラヴェルは残念に思うかもしれませんが、コンテンツは独り立ちするのです。
大事な大事な息子のような作品でも、有名になればなるほど親の手元を離れて解釈されて行きます。
「こういう意図で作ったんだ」という主観の入った評価をせずに、作品の自立を支えてあげるのも、コンテンツ製作者の役目ではないでしょうか。

 

ボレロ~ラヴェル:管弦楽曲集

ボレロ~ラヴェル:管弦楽曲集

  • アーティスト: モントリオール交響楽団デュトワ(シャルル),モントリオール交響合唱団,ラヴェル,デュトワ(シャルル),ラクールス(ルネ),モントリオール交響楽団,ハッチンズ(ティモシー)
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ラヴェル:ボレロ(ラヴェル管弦楽曲集)

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